美意識とマーケティングが手を組んだとき、メルセデスはCLSという形にたどり着いた。
INDEX
静かなる革命の造形
ボディカラーは、カーネリアンレッド。深い赤はメタリックの粒子を湛え、陽の光に当たればわずかにオレンジの気配を帯びる。
CLSという名前を初めて耳にしたとき、何を意味するのか分からなかった。けれど、この形を見た瞬間にすべてが腑に落ちる。
4ドアクーペ──言葉だけでは矛盾をはらんだその発想は、CLSによってひとつの答えを得た。
2000年代前半、セダンでもなく、スポーツカーでもない新しいカテゴリが生まれようとしていた。そして、メルセデス・ベンツがその火付け役だったことは、今となっては紛れもない事実である。
クルマが語りはじめた時代
CLSが誕生した2000年代は、ポルシェがボクスターを、BMWがXシリーズを世に送り出した時代だった。明確なマーケットインの時代。人々のニーズに応えるだけでなく、それを“先取り”してみせるような開発姿勢。
CLSは、まさにその転換点に立つモデルだった。それまでの「作りたいものを作る」姿勢から、「求められる形を美しく仕上げる」という、別種の美学へ。プロダクトアウトの終焉と、ブランドの再定義が、デザインと走りの両面ににじみ出ている。
メルセデスが“発明”したこの新しいセグメントには、やがて欧州のライバルたちも追随する。アウディA7、ポルシェ・パナメーラ、BMW・6シリーズグランクーペ──いずれもCLSの成功がなければ生まれてこなかったかもしれない。CLSはまさに、時代の潮流を変えた原点だった。
完璧な経歴が語る空気感
今回試乗したCLS350は、走行わずか2000km。ワンオーナー、整備記録簿11枚という完璧に近い履歴を持つ。2009年の登録から、ほぼ“保存”されていたといっていい。
後期モデルにあたるこの個体では、インフォテインメント周りも一定の完成度を誇り、ナビ画面の見やすさや操作系においても古さをあまり感じさせない仕上がりだ。
また、初代CLSとしての原点的魅力を保ちながらも、後期型では細部にわたる意匠変更や装備の改良が施されており、デビュー当初の勢いに円熟味が加わった印象だ。
『はじまりでありながら完成形』という立ち位置に、より説得力を与えている。だからこそ、当時の熱量や空気感までもが、この個体には宿っている。
ドライビングに宿る記憶
走り出してまず驚いたのは、ステアリングの戻りが現代車のように“自動的”ではないこと。ゆるやかに、意図を汲むようにしか戻らない──古き良きメルセデスの名残を、今なお確かに感じさせてくれる。
それは決して欠点ではない。直進安定性や操舵の余韻として、ドライバーの感覚を研ぎ澄ませる道具のような挙動なのだ。ハンドルひとつで、メルセデスというブランドが長年にわたって培ってきた哲学に触れることができる。
そして、乗り込む瞬間に訪れる、もうひとつの驚き。それがサッシュレス4ドアの開放感だ。ドアを開けたとき、窓枠がないだけでここまで印象が変わるのか──と感じるほど、空間と身体の関係性が変わる。クーペ的な流麗さと、セダンの利便性を共存させた設計思想の一端が、ここにも表れている。
ドライビングフィールは、しなやかでどこか抑制が効いている。3.5リッターV6エンジンは静かに目覚め、街中では控えめに、ワインディングでは余裕を持って応える。
この“抑えた性能”こそが、CLS350の真骨頂かもしれない。走りにすべてを求めるなら他にもっと速い車はある。だが、走りとスタイル、実用と遊び心の境界をこれほど美しくまとめたクルマは稀だ。
過去をリアルタイムで感じる
いま、この新車同然のCLSに乗るという行為は、過去をなぞることではない。メルセデスが“市場”という言葉に目を向け始めた転換点を、リアルタイムで感じ直すという、非常に特別な体験なのだ。
しかもこの個体には、「出自が確かな1台」という絶対的な安心がある。ワンオーナーで、どのように扱っていたのか、その履歴が記録簿によって丁寧に証明され、時間の中で曖昧になっていない。中古車であることの不安を跳ね除ける、極めて誠実な存在だ。
無数に存在するクルマの中から、たった1台の履歴と向き合える。そのこと自体が、所有という行為に深みを与えてくれる。価格や年式を超え、クルマが語りかけてくる。その声を聴き取れる人にこそ、このCLS350は応えてくれるに違いない。
向き合うことで得られるもの
CLSは、どんなに大切に乗っていても、やがて時代からは取り残されていく。しかし、それが“欠点”に転じないのがこのクルマのすごさだ。
たとえば、彫刻を買うとき、その用途を問う人はいない。ただその存在に価値を見出すかどうか──CLS350は、そうした存在だと思う。
この個体に込められた時間と美意識に向き合うとき、クルマは移動の道具ではなく、人生における美学の表現手段になる。そういう1台が、時間を超えてあなたを待っている。
SPEC
CLS350
- 年式
- 2009年
- 全長
- 4915mm
- 全幅
- 1875mm
- 全高
- 1415mm
- ホイールベース
- 2855mm
- トレッド(前)
- 1585mm
- トレッド(後)
- 1580mm
- 車重
- 1740kg
- パワートレイン
- 3.5リッター V型6気筒 自然吸気エンジン(ガソリン)
- エンジン最高出力
- 272ps/6000rpm
- エンジン最大トルク
- 350Nm/2400–5000rpm
- サスペンション(前)
- 4リンク式(独立懸架)
- サスペンション(後)
- マルチリンク
河野浩之 Hiroyuki Kono
18歳で免許を取ったその日から、好奇心と探究心のおもむくままに車を次々と乗り継いできた。あらゆる立場の車に乗ってきたからこそわかる、その奥深さ。どんな車にも、それを選んだ理由があり、「この1台のために頑張れる」と思える瞬間が確かにあった。車を心のサプリメントに──そんな思いを掲げ、RESENSEを創業。性能だけでは語り尽くせない、車という文化や歴史を紐解き、物語として未来へつなげていきたい。